なぜ、この日本の自衛隊が
“ドーンブリッツ2013”
に参加することに意義があるかといえばひとつ前のエントリーを読んでいただければもちろんわかるのですが、
それに触れられていない大きな意義があります。
それは周近平がちょうどカルフォルニアにいまオバマ大統領と会うためにいっているわけですが、
このドーンブリッツ2013はそのすぐそこでやっているわけです。
中共は日本がこの訓練に参加することを妨害しようとしたのですが(民主党の時はまんまと妨害されて参加できませんでした(´・ω・`))今回は妨害もものともせずに参加したわけです。
自衛隊の防衛力は大幅にアップするとともに、想定敵国はその戦力を侵略の際には検討せざるを得なくなります。
中共のジェノサイド(民族浄化)ともいえるチベットやウイグルへの侵略を見るに、日本も当然その侵略に備えなければなりません。
世の中、無抵抗の人をどうにかこうにかするわけないというお花畑な人ももちろんいますが、
実際には無力になった状態でこそ国民は蹂躙されるのです。
8月9日のソ連軍侵攻で起こったこと
ブログ ねずさんのひとりごと2011/10/14より
※今日の記事は、あまりに残酷なので、女性の方は読まない方がいいです。
刑法には堕胎の罪という項があります。
刑法212条~216条です。
しかし、優生保護法という法律が昭和23年にでき、刑法の堕胎罪は大幅に緩和され、いまではこの法律は完全に有名無実化されてしまっています。
この優生保護法の第一条(目的)には、つぎの文章があります。
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この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。
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この法律がなんのためにできたのか。
それを知るには、昭和20年8月に時をさかのぼらなくてはなりません。
昭和20(1945)年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満洲国、朝鮮半島、樺太、千島列島などに侵攻を開始しました。
当時の満州には、戦時徴用のため男はほとんど南方戦線に送られ、満州一帯に残っていた日本人は、およそ9割が婦女子だったのです。
そこにソ連が襲いかかった。
そして同年8月14日には、葛根廟事件が起こっています。
この事件は、満州国興安総省の葛根廟(いまの支那の東北部のモンゴルと国境を接するあたり)というとろこで、戦災からの避難のために集まっていた日本人婦女子千数百人がソ連軍によって攻撃され、1000名以上が虐殺されたものです。
簡単に言えば、被災地にある女子供ばかりの避難所を、ソ連軍が襲い、全員を虐殺したという事件です。
すこし詳しくみてみます。
葛根廟というのはラマ教の僧院で、場所は興安南省と竜江省の省境に近い辺境です。
当時、葛根廟から25キロほど離れた興安とその周辺には、約4千人の日本人がいた。
全員、非武装の民間人で、男はほぼゼロです。
ソ連が参戦した8月9日の翌日、日本の民間人たちは南方に向けて避難を開始しました。
そして8月12日、避難に遅れた2千人が、葛根廟をめざして、徒歩で出発した。
男は、ソ連軍の侵攻阻止のため、戦いに出ています。
ですから避難民たちは、ほぼ全員が婦女子です。
この2千人が、ようやく葛根廟が視野に入ったときのことです。
日付は8月14日。時間は午前11時半です。
ソ連軍戦車隊が来襲した。
彼らは、武器を持たない無抵抗の女子供に対し、機銃掃射を加えます。
あたりは血の海となった。
生存者はわずか150名です。
避難民の隊列は、女や子供ばかりです。
当然武器は所持していない。
女子供ばかりの避難民の隊列を、武装した日本の正規軍と間違うはずもない。
まぎれもなく意図的な非戦闘員への虐殺行為です。
「日本人だから狙われた」
「日本が悪いことをしたから狙われた」
などと言う方がいるかもしれない。
いいえ、違います。
日本は、日清、日露、第一次、第二次大戦のすべてを通じて、ハーグ条約の精神を遵守して、正々堂々、武器を持つ相手とのみ、戦闘をしています。
支那戦線においても、敵の将が述べています。
「もし日本軍が来たら、普段通りの生活をしていてよろしい。もし国民党軍が来たら、各自、固く門を閉ざし、強襲に備えよ」
日本の軍は、誇りある正規軍なのです。
「白ロシア」という地名があります。「ベラ・ルーシー」の約です。
「ベラ」というのは、「純潔」という意味です。
「ルーシー」はロシアという意味です。
つまり、純潔のロシアというのが「ベラ/ルーシー」の言葉の意味です。
この地は、モンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくときに、湿地帯のだったために、騎馬が通りにくく、避けて通られた。
おかげで、「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」のルーシーと呼ばれるようになったものです。
日本では、軍人さんは誠実で礼儀正しく、命令一科、命を賭けて戦う人です。
しかし大陸では、古来、支配地における強姦や強奪は、武装した軍隊の特権、というよりむしろ「職務」ですらあったのです。
ベラルーシーといっても13世紀の話だろ、と思う人もいるかもしれない。
違います。
モンゴル軍の継承国であるロシアも支那も、現在にいたるまで、勝者の強姦や虐殺、殺戮は、彼らにとって、DNAに刻み付けられた不変の文化です。
ロシアの有名な作家のトルストイは、その著「スターリン」で以下のように書いています。
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ドイツ人の女性は、老女から4歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはあまりいなかった。
あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも250人に暴行された少女に出会った。
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「ベルリン陥落1945」という本を書いたアントニー・ビーヴァーは、次のように書いた。
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ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は9万5千ないし13万人であった。
ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その結果死亡した人がー万前後、その多くは自殺だったという。
東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者140万人のケースでは、死亡率はずっと高かった。
全体ですくなくとも200万人のドイツ女性がレイプされたと推定され、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽった。
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「22名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。
たとへ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、日本が再びこの地に還ってくる時、ご案内いたします。
その意味からも私どものなきがらは土葬としてこの満洲の土にしてください」
これは、大東亜戦争が終わって10か月も経った昭和21年6月21日に書かれた看護婦たちの遺書です。
彼女たち22名はこの遺書を書いたあと、制服制帽姿で、めいめいの胸のあたりで両手を合わせて合掌し、足を紐(ひも)できちんと縛ったうえで、青酸カリをあおって、集団自決した。
「ある戦後史の序章」という本には、石田一郎という人の当時の手記が掲載されています。
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満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと三八度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて、さらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。
折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた。
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若槻泰雄さんが書いた「戦後引揚の記録」という本があります。
そこには以下の記述があります。
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ソ連兵の日本婦人への暴行は、すさまじいの一語に尽きる。
それが12~3歳の子女であろうと、70近い老婆であろうと、そして人前でも白昼でも、また雪の上であろうとも、そういうことには全く頓着しなかった。
樺太の場合同様、女性たちは丸坊主になり、顔に墨をぬり、男装して難を逃れようとしたが、彼らはひとりひとり胸をさわって女であることを確かめると引き立てて行った。
南満へ疎開した人達が、終戦後また新京の自分の家に帰る途中、公主嶺の駅で進駐してきたソ連軍の列車とばったり出くわしたとき起こった事件は「誰知らぬ者もない事実だ」という。
それは、あわてて発車しようとする日本人の乗っている列車をソ連兵が止め、女は一人残らずプラットフォームに降ろされ、「白日の下、夫や子供や公衆の真ん前で集団暴行を受けた」のである。
もとより日本女性のすべてが唯々諾々とソ連兵の毒牙に身を任せたわけではない。
陵辱に耐えかねて、死をもって抗議する若い婦人、暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた。
例えば敦化の日満パルプ株式会社の社宅では、ソ連軍は命令によって男と女を分離させ、170人の婦女子全員を独身寮に監禁し、夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、この際、23人の女性は、一斉に青酸カリによって自殺している。
(中略)
昭和20年8月20日頃であったろうと思う。
鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて4、5日たっていたと思われる頃の出来事だった。
そんな日、病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。
12~3の少女から20歳ぐらいの娘が、10名程タンカに乗せられて運ばれていた。
それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。
その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。
大腿部は血がいっぱいついている。
顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。
次の女性はモンペだけをはぎとられて、下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。
次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。
次もその次も、ほとんど同じ姿である。
「ああ女とはこんな姿でいじめられるのか・・・」
次々と病室に運ばれて行く少女を目の当たりに見て、その非情なソ連兵の動物的行動に憤りを感じると同時に、道徳も教養も平和の中にのみあるのであって、ひとつ歯車が狂ってしまったら、そんなものは何の役にもたたないのだ・・・・。
一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った。
銃で撃たれて死ぬのは、苦痛が一瞬であるが、自分の体重の三倍以上もある毛むくじゃらの男数名になぶられた少女や娘たちは、どんな苦しみであったであろうか。
医師の話では「10名に2~3名は舌を噛んで死んでいるんです」
新京でさえこのような惨状であったわけだが、ソ連軍占領下の治安は、一般的に小都会、田舎にいくほど悪かった。
毎夜、婦女子の一定数の割当供出が強要されたところもすくなくない。
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やっとの思いで、満州から朝鮮半島を経て、あるいは支那を経て日本に帰り着いた人々は、復員船で博多港や佐世保港に入港しました。
上陸した日本人引揚者は、1年半で139万人にものぼっています。
そして全婦女子は、三ヶ月間、博多や佐世保の施設内に抑留された。
理由は、強姦されて身籠った女性が多数いたこと、陵辱によって性病に感染した者が多数いたためです。
上陸寸前に、近づく故国の陸を見て、絶望して海に身を投げた女性もたくさんいた。
こうした事態を受けて、昭和23年にできたのが優生保護法です。
いま、私たちが平和な日本で生活できるのは、日本という国家があるおかげです。
国家の庇護を失ったとき、どんな酷い眼に遭わされるか。
その現実を、私たち大人はしっかりと記憶しておかなければならないと思います。
そして日本が、先の大戦のあと、日本として存続できたのは、陛下のおかげであることも、私たちはしっかりと脳に刻み付けておく必要がある、と私は思います。
さて、満州の国境に近い葛根廟からほど近い大虎山では、2名の女性が航空機による最後の特攻を行っています。
女性の特攻というのは、あとにも先にも、この件だけです。